「真奈、ちょっといいか?」
そういって声をかけられたのは真奈が夕食の後片付けをしていた時のことだった。
一瞬気のせいか、と思ったが振り返れば秋庭が台所の入り口から長身を覗かせてこちらを見ている。
「孝範さん?」
真奈は洗い物をしていた手を止めた。
ハンドルを回して、ちょろちょろと流しっぱなしにしていた蛇口の栓を閉めると、壁にかけてあるハンドタオルで手を拭いた。
それから、「何か用ですか?」といそいそと駆け寄っていった。
「あ。まだ洗物してる最中だったか。悪い」
真奈の背後にまだ使った名残のある食器を見つけたようで、秋庭は顔を少し曇らせた。
「・・・・・・終わってからにすりゃ良かったな」
「いいですよ。後でしますから、気にしないでください。洗物は逃げません」
「そうか? 悪いな」
じゃあ今いいか? 言われて真奈は即座にうなづいた。
促されてリビングの椅子――廃品同然の椅子を拾ってきて、少しでも座りやすいようにとあれこれ工夫して使えるようにした思い出の品だ――に座った。
対面に秋庭が座る。
テーブル越し――このテーブルもまた廃品同然のものをリフォームしたものだ――に向かい合う形のまま少しの間沈黙が広がった。
秋庭は何かを考えているように見えた。
何かあったのだろうか?
この百里に越してきて三年。そろそろ異動の辞令でもかかったのかと思ったが、そういったものを告げる雰囲気でもない。
大体、いつもの秋庭なら、「次の着任地はどこどこだ」などとさらりと告げるだろう。
真奈としても、三年暮らした百里で知人も増えたし、異動がさびしくないというわけではないが、秋庭が行くところならどこにでもついていくのに異存はない。
秋庭もそういったことは心得ているだろうから、言いよどむようなことでもない。
心配そうに顔色を伺う真奈に気づいたのだろう、秋庭があわてて手を振った。
「違う、お前が心配するようなことじゃない」
そういわれてほっとした。秋庭がそういうならきっと心配するようなことではない。
「じゃあ、なんですか?」
秋庭と出会ってから5年ほど。恋人となってから3年以上の月日が流れている。
お互いの間の読みあいなどだいぶ慣れたと思ったのに。
何かを言おうとして、躊躇いの気配を漂わせる秋庭などそうは遭遇しない珍事である。
真奈が首をかしげるのも無理はなかった。
そんな沈黙を破るように、秋庭が一枚の紙を差し出してよこした。
「これにサインしてくれないか」
訝しげに眉を寄せながら、真奈は紙を手に取った。
「高範さん、これ・・・・・・・・!」
「見たとおりのものだ。俺は、お前がよければそれにサインしてほしい。俺のほうはすでに埋めておいた」
「婚姻届ですよね? どうしたんですか、これ」
「どうって、貰ってきた以外にないだろう。もうじき役所の住民管理の部門だけ再開するんだと。まだ一般には流れてない情報だが、本当らしい。一足先に貰ってきた」
婚姻届。この紙切れ一枚で、秋庭が「赤の他人」から「家族」と公式で認められることになる。
ほとんど夫婦同然だったとはいえ、真奈は相変わらず小笠原の苗字のままだった。秋庭真奈、にあこがれなかったといえば嘘になる。
けれども、塩害も漸く収束したとはいえ、世間の混乱の余波はまだまだ続いていたし、戸籍上夫婦ではないとはいえ、ずっと一緒に暮らしていて夫婦同然だ。
唇を合わせることも、肌を重ねることも、仕事から疲れて帰ってきた秋庭を暖かいご飯で迎えることも――普通の夫婦と同じようなことをしている。
世間に秋庭との関係を説明するときは相変わらず「恋人」だったけれど、頭の中の認識では秋庭はもう真奈の「夫」だった。
こういった役所もまともに機能していないご時世、事実婚のカップルなど山ほどいる。
だからこれでいいんだ、と満足していた。
・・・・・・そう思っていた。それなのに、婚姻届の文字を見て、その言葉の意味を理解した瞬間涙が出た。
「お、おいっ!真奈!」
泣くほど嫌だったのか?! と慌てる秋庭に真奈は「違うんです」と首を振った。
「嬉しいんです!嬉しいんです、凄く!――これで、あたしにもまた家族ができるんですよね」
小笠原真奈、と名乗るたびに自分は秋庭の他人なのだと思い知る。
両親を失った真奈は、家族という縁をもたない。
それでも秋庭という存在が自分を支えてくれていたから、それを「寂しい」と思う感情に気づかないふりができた。
けれども、心の奥底ではとても寂しかった。
それを秋庭がずっと気にしていてくれたのだと、この紙が教えてくれた。
自分が思う以上に、秋庭のほうが気にしていてくれたのだろう。
だから、世間に一歩先んじてこれを貰ってきてくれたに違いない。
多分、かなり無理を言ったはずだ。公式発表もまだということは、体勢もきちんと整っていなかったはず。
それなのに――。
「もしお前がそれにサインしてくれたら、役所の機能が再開次第、一番に提出してくる。そのときからお前は小笠原じゃなくて、秋庭真奈になる。・・・・・・なって、くれるか?」
「なります」
ぎゅっと握り締めた手に力が入った。
「ならせて下さい。・・・・・・あたし、自己紹介するときにもう小笠原真奈じゃなくて、秋庭真奈ですって言いたいんです」
「小笠原の苗字でなくなっても、いいのか?」
ご両親の名残がなくなるだろう。それでも?
そう言われても真奈の気持ちに変わりはない。深々と頷いた。
「高範さん。両親があたしに残してくれたのは、苗字じゃない。あたしの中に流れている血が残っています。だから、いいんです」
涙をぬぐって晴れ晴れとした笑顔でそう告げると、秋庭は「良かった」と肩を下ろした。
「実はな、」と秋庭が打ち明け話をする。
「俺が先走って用意して、断られたらどうする気だ? と隊の連中に散々冷やかされてな。少しだけ、俺もびくびくしてた。もう少しで三十代も折り返しだしなぁ。真奈なんかはまだ20代前半だろ?中年の男なんかと結婚したくないっていわれたら、凹む」
あたしだって――真奈はそう返す。
「乳臭い小娘、って何度言われたと思ってるんですか!そのたびに、あたしなんか秋庭さんと釣り合わないんだと凹みましたよ!でも、今一緒に居ます。秋庭さんと10の年の差は縮まないけれど、それはもう今更ですから。年齢差なんて関係ないです。あたしは秋庭さんだから一緒に居たいんです!できれば、ずっと死ぬまで――あたしが今更秋庭さんと結婚したくないなんていうと思ってたんですか?」
気持ちの上ではもう夫婦だったのに。
きゅっと唇の端を引くと、秋庭は「参ったな」とつぶやいた。
「そうだったな。俺も気持ちの上では夫婦だったが――独り善がりじゃないかと思っていたから」
「そんな風に思ってたんですか、高範さん」
「・・・・・・呼び方戻ったな」
あ、と真奈は口を押さえる。
「秋庭さんって久しぶりに聞いた」
くしゃり、とテーブル越しに手を伸ばして秋庭は真奈の髪をくしゃりと引っ掻き回した。
「つい、出ちゃったんです」
「懐かしかったけど・・・・・・やっぱり孝範って呼んでくれ。もうすぐお前も秋庭になるんだから」
「わかってます!つい出ちゃっただけです」
「三年たってもこうか。頼むから、結婚したらちゃんと秋庭と呼ばれても返事してくれよ?小笠原さん、でもう返事するな」
少し照れたようによそを向いた秋庭に、真奈は破願した。
「善処しますね」
「善処じゃなくて実行してくれ」
秋庭の声が少し情けないような声だったから、真奈は声を高くあげて笑った。