殿下とはその後すぐ別れた。
「僕は城に戻るよ。・・・仕事があるからね」
殿下は笑って彼女に手を振ってきた。
嘘ばっかり。影を置いてきていらっしゃるのではないですか、また!
殿下の思いがけない一面を見てしまった彼女は、その言葉を飲み込んだ。
本当の殿下の姿がわからなくなってきたのだ。
まさかあの殿下が初恋――おそらくは――の為に、呪文管理官一級資格を所得しようとしたなんて、予想外にも程があった。
(あの殿下なのに意外に純情?そんなバカなこと!)
『実はあの殿下は偽者』説もかなり本気で検討してみたが、しかしそんなはずもあるまい。
あんな人間は二人もいたら迷惑どころの話ではない。人類の為にあれはやはり本物であると判断するしかなかった。
しかし、先ほど暴いた過去は、今まで抱いてきた殿下像を否定するかのようで・・・。
頭がこんがらがったまま、彼女は屋敷へと戻った。
そうだ、聞いてみればいいではないか。
屋敷の使用人が殿下を避けているのは本当なのかを。
そして、もし本当ならば、殿下の過去の為なのかどうかを。
+ + +
「それで、私の所にいらしたわけですか、奥様」
と、いうのは本日の日替わり執事メニュー「ライ」という紙を大広間と玄関と彼女の部屋の前に貼り付けた、ハインライン家の執事である。
今日も面妖な仮面をつけていた。
花丸ほっぺにちょび髭のついたつぶらな瞳の仮面。微妙に可愛いのが気持ち悪い。
「そうです。・・・執事さんなら御存知でしょう?」
イサハの妹は亡くなってしまったのか。
そして、その為に屋敷の使用人が皆彼を避けているのは本当のことなのかどうか。
「・・・ライです、奥様」
今日はアンディでもエマーロでもセバスチャンでもないらしい。
「ライさんなら御存知ですよね?」
名前について微妙な抵抗を試みることをせずに、今日はそのまま彼女はライと呼ぶことにした。
そういう問題を、今は後回しにしたのだ。ほかの事に関わっていられるほど彼女は器用ではないのだ。
そう。今は、それどころではない。
「知ってどうなさるおつもりですか?」
「どうするって・・・」
「・・・とりあえず、手を離してください」
彼女は、自称「本日はライ」氏の襟首を掴んでゆすぶっていた所だった。
無意識に。
慌てて手を離す。
「あ、すいません・・・」
「余りこうされるのは好みません。いえ、私の魅力に奥様がメロメロになるのも時間の問題だったとは思っておりましたが、いざこういった状況が差し迫ると、旦那さまへの忠誠心の間に挟まれて心が苦しく・・・」
ライ氏は今日も大変芝居がかった様子でそういった。
胸元を押さえて、よろよろとよろける様はうさんくさい。
「・・・えーと、続けてもいいですか」
勿論、ライを揺さぶり続けることを。
(この人、どうしてくれよう)
彼女は自分の右手と、ライの襟首との間に視線を往復させた。
「愛の悲劇をですか?」
くりん、とライは首をかしげた。
その瞬間、彼女の心は決まった。
彼女は右手をすばやく動かす。その指の先は、ライの襟元へ伸びていた。
流れるような動きだった。
揺さぶる事暫し。
予想外のハプニングが彼女の身を襲う直前まで、彼女はライを揺さぶり続けていた。
+ + +
カツーンと硬いものが床に落ちた音が聞こえたのは、そろそろ手を放してやってもいいかな、などと彼女が考えていた時だった。
その音で我に返り、もはや初めの目的を忘れかけていた事を漸く思い出すことが出来た。
彼女は揺さぶることに情熱を傾ける為ではなく、この執事に聞きだしたいことがあって、彼の元を訊ねたはずだった。
思ったよりライが軽かったせいで、予想していたよりも苦もなく、自意識過剰な仮面執事を揺さぶることができた為に、彼女はつい夢中になってしまったらしい。
流石に腕が疲れたし、ライも体から力が抜けたように大分弛緩してきていた。
思えば、抵抗もろくにせずに彼女に揺さぶり続けられたのは、ライの執事根性がなしたワザなのか。
一応、彼女はイサハの嫁という身分。
主人格である彼女に抵抗できなかったということだろうか。
もしそうであるならば、ある意味で天晴れだ。
「何が・・・?」
落ちたのか、と足元を見ればボタン。
見覚えのあるボタンは、丁度彼女が揺さぶり続けた執事のシャツのボタンだった。
あまりの衝撃にはじけ飛んでしまったらしい。
「あ、すいません!」
続けざまに二つ目のボタンが飛んだ。
ボタンを括りつけていた糸に限界が来てしまったようだ。
「ああ、二つも・・・」
カツーン。
「訂正します、三つも・・・」
ぱっと手を離し、ボタンを3つ拾い上げる。
重力にしたがって、ぺしょんと執事が床に崩れ落ちた。
「はい、ボタンをお返ししますね」
振り向いて執事へ声をかけるが、返事がない。
「・・・ライさん?」
「・・・・・・・」
「え、す、すいません。ライさーーん!?」
呼びかけてもぴくりともライは動かなかった。
ひょっとして気絶してしまったのだろうか。
うつぶせになっている上、仮面を被っているのでは、ライの様子がわからない。
大急ぎでひっくり返した。
やはり動かない。ぐったりとしている。
こういった時はどうすればいいのか、気付け薬でも飲ませるのか。
しかし、仮面をしたままではそんな薬を飲ませる事などできないし――
――仰向けにしたライの胸元の辺りで、彼女の視線は留まった。
信じがたいものをみたように、目を見張る。
「え、嘘、まさか・・・・」
(まさか、そんなっ!)
ごめんなさい、と小さく呟いて、ボタンが飛んだシャツに手をかけた。
ゆっくりと開く。彼女はまるで痴女になった気分だった。
それでも確かめなければならない。
「本当に・・・ライさんは女性?」
――開いたシャツの下。
胸をつぶすように細い帯状になった布を幾重にも巻きつけているが、それはどう見ても、女性の胸のようだ。
彼女は息を詰めるようにしてじっと見つめたが、やはり、幻などではないようである。
「ど、どうしてなんですか?男装が趣味?それとも、実は男性になりたかった人!?」
気絶した彼――改め彼女――、ライは応えない。
「あ、こうしている場合じゃ。このままじゃろくに呼吸も出来ないでしょうし!」
あたふたとして、仮面に手をかける。
何か理由があって仮面を被っているのだとしたら、本当に申し訳がない。
けれども、命の危険も関わってくるのだから、ここは許してもらおうか。
「えぇい!」
―――仮面はあっけなく外れた。
仮面に隠された白い頬に、僅かにうっすらと傷跡が残っていた。何か事故にでもあったのか。
けれど、傷跡があっても見間違いようがないその顔は――サシャに酷く似ていたのだった。
(えーと、ちょっと私も倒れてもいいですか?)
今日一日、一杯色々な事がありすぎた。
彼女の頭は、許容量オーバーで破裂しそうだった。
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