道を横によけてから待つことしばし。
「……アンタ」
再び頭上より高い位置から声が降ってきた。彼の声だ。
(ああ、声もいいのだな)
彼女は今更認識して、心の中で感嘆のため息を零した。先ほどは彼に思いがけず声をかけられて、動揺していたらしい。
声の質まで気にしていなかった。
彼女の得意とする遠見では、話している声までは聞くことはできない。まともに彼の声を聞いたのは今回が初めてになる。
音声を聞くには別の術を使わなければならないし、盗み聞きは趣味ではない。
彼女は単に彼を鑑賞することのみを楽しんでいたのだから、音声までは無用だった。
しかしこの情報は、脳内観察日記に記しておくべきだろう。
頭の中で、彼の意外な声のよさについての項目を付け加えた。
そこまでしてから、彼女は彼を見上げてゆっくりと首をかしげた。
道はもう塞いでいない。なぜ彼はまだここに居るのだろう。どれだけ太い人間でも、これだけの幅があれば通れるはずだ。
ひょっとすると彼は風船のように膨らんでしまう体質なのか。そんな人間がいる噂は聞いたことがないから、やっぱり違うだろう。
後は彼女に構わず過ぎ去ればいいだけだと思うが、彼は声をかけてきた。
(まだ何かあるのか?)
思わず声をかけたくなるような前衛的な寝癖はついていないはずだし、『余路死苦』などと古代語で刺繍された目立つジャケットなどをきているわけでもない。
まさか、カツアゲとか。
シヴィルは通行料をよこせなどと迫られたらどうしようと思いながら、
「はい?」
恐る恐る返事をした。
「ここに、何の用だ?」
どうやら、カツアゲではなかったらしい。
「寮で見たことは今までなかったと思うが?」
と付け加えられて、シヴィルはああ、と納得したような声を上げた。
「今日から寮でお世話になるシヴィ・・・あ、シグだ」
名を名乗りかけて、言い直す。
シグ――シグリエというファミリーネームから一部を切り取ったものだ。
余り褒められない行為をしている手前、本名を名乗るのはためらわれた。
完全な偽名ではないが、本名でもない名前を名乗るくらい許されるだろう。
学校では家名を公開する機会は余りない。
家格差による差別を表立って出さないための措置と聞いている。
学園に通っている者の中には大貴族もいるし、平民もいる。
だが、この学園にいる限り身分に関わらず平等であるという建前があり、生徒もそれに倣う形をとっている――少なくとも表では。
まるきり嘘でもない名前であったが、家名が公開されていない以上、シグリエの名前は秘匿されている。
万一彼が何か用事があって、シグという名で探そうとしても彼女は見つけられないという方式だ。そのほうがいい。
この後彼に会う予定はない。この場をしのげればそれでよかった。
「なるほど、今日からか。そりゃ見たことないのも無理ないな。……にしても、珍しい。今の時期からっていうのは」
「両親の仕事の都合で・・・」
本当に急な都合だった。
そうでなければ、この寮に入らず、別の場所を探すこともできたかもしれない。
「ふーん?まあ、いい。俺は寮生のアロルド」
「アロルドさんか」
「ああ、アロルドでいい。アンタはシグね、シグ……うちの犬と名前同じだな。毛並みや目の色まで一緒。面白いな」
感心したようにそういわれて、シヴィルは冷や汗をかいた。
人間、親近感を抱いた名前は意外に覚えていたりする。
しかも毛並みや目の色も一緒。
髪の色が凡庸な薄茶で、瞳の色は赤茶であったことを今まではなんともおもっていなかったが、今は恨めしい。
内心の動揺を押し隠して黙っていたら、何を勘違いしたのか彼は今度件の犬の写画を見せてやるといってきた。
彼の言葉を信じてないと思われたのだろうか。
写画とは術の力で紙に対象物の姿を焼きこんだ絵のことだ。
遠慮すると首を振ると、そうかと彼は頷いた。
なんとなく居心地が悪い思いをする。
ずるずると会話を続けるほど、彼の中に彼女の印象は強く残ってしまうと思うと、顔には出さなかったが焦りが募った。
ただの観察対象であったはずの彼と、こんな風に知り合う予定はなかった。
(なるべく早く、ここを離れなければ)
このままではまずいことになりそうな予感がした。
必死で考えて、漸く見つけた口実をシヴィルは口にだす。
「私はそろそろ事務所へいかなければならないから」
「ああ、そうだったか」
あっさりとアロルドは納得したようだった。
拍子抜けをした。もっと前に彼に暇乞いをすればよかった。
そうすれば、彼に余計な印象を植え付けないですんだろうに。
「じゃあな、シグ。――また会おう」
こんな風にいわれることも、なかっただろう。
ごにょごにょと口の中で返事をしたふりをして、シヴィルは背を向けたアロルドに向かって手を振った。
去り行く彼の背を見送りながら、自分に言い聞かせる。
ずっと会わなければ、いくらなんでもそのうち忘れるはずだ。
彼とこれ以上接触しないように、今まで以上に気をつけよう。
そうすれば大丈夫なはずだ、今までどおりの、一方通行の関係でいられるだろう、と。
それなのに、なんだろう。胸がざわざわした。
これきりの関係のはずなのに、なぜか彼と自分の縁がまだ続くような予感をシヴィルは感じた。
――そして、それはまったくの真実だったのである。
あくる朝、寮の食堂で「よう」と彼に声をかけられて、彼女はもうただの観察者という立場には戻れないことを知ったのだった。
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