「今、季節ってなんだった、尾上?」
「春だった気がします、笹島先輩」
「だよな、俺の気のせいじゃないよな」
尾上 佳伊里は難しい表情を浮かべながら、一つ上の先輩――
笹島 早和樹(と顔を見合わせた。
「――なんでこんなに寒いんだろうな?」
「――なんでこんなに寒いんでしょうねぇ」
図らずとも二人の言葉は重なった。
+ + +
四月も後半。
間もなく暦上では初夏といってもよい頃合だというのに、尾上は冬用のコートを手放せなかった。
家の中でもストーブ大活躍。
今年の光熱費は間違いない、クーラーのせいではなく、暖房の所為で例年より高いものになるに違いない。
尾上は暑さにはそこそこ強いが、寒さには限りなく弱かった。
冬ともなれば、コタツの主――怪獣コタツムリと化すほどである。
コタツムリとなってしまったが最後、彼女は尾上家で一番役に立たない生き物となりはてる。
娘の余りのナマケモノぶりに業を煮やした親が、最終兵器「コタツを捨てても良いのか!?」の使役呪文を発動するまで、尾上はコタツでみかん・あるいは煎餅・あるいはお餅を手にぬくぬくとした至福にまどろむのである。
そんな尾上にとって、今年の異常とも言える寒さは心底辛かった。
例年であれば冬を乗り越え、ぽかぽかした日差しにうっとりと浸る時分であるはずなのに、今年はいまだそんな兆しが見えない。
一体誰の陰謀だ。
もしかすると、気象をコントロールする術を身につけた悪のグループが暗躍しているのではあるまいか。
そう邪推してしまうほどに――実際に気象をコントロールできる術を手に入れた者がいたとしたら、そんなものですまないことは棚に上げておく――本当に、春らしくない、4月なのだ。
ブラウスの上には、薄手のセーターにコート、スカートの下にはタイツ。
これが4月後半の現在、標準装備なのだから、たまらなかった。
「こうも寒いと春って気ぃーしないよな」
げんなりとした顔で、笹島がぼやく。
彼は部活が一緒の先輩(自分は後輩)で、放課後部室に一番乗りの権利をお互いに争う仲だった。
今日は尾上が一歩早かった。にんまりと勝利の笑みを笹島に向けて浮かべたのは先ほどのこと。
その笑顔も無人だった部室の寒さに凍りついた。笹島と同時に震えて、二人同時にエアコンをつけに走ったのは記憶に新しい。
部室が温まるまで、雑談でもしようかということになったのだが、やはり気になるのはこの季節外れの寒さのことで。
「実はまだ冬なんじゃないかと、私はカレンダーを疑ってます」
真剣な顔で、尾上は訴えた。
だよなぁ、とそれに相槌を打つと、笹島は左右にゆっくりと頭を振って腕を組んだ。
暫し考え込むようなそぶりを見せて、それから尾上のほうを向く。
「今、春らしいところってあるか?」
「桜とか?」
「もう散ったな・・・・・・」
「散りましたね・・・・・・。しかも、葉桜は初夏の風物詩ですね。夏はまだ遠い気がしてならないんですが」
「いや、この調子だと寒くなくなった頃にはきっと真夏だろうぜ。・・・・・・で、他には?」
「ああ、そうかもしれませんね。春は一体どこにいったのか、という話に。えーと、春といえば卒業、入学シーズン。袴なんてどうでしょう・・・?」
自信なさそうに呟く尾上に、笹島は残念そうに首を振った。
「それは先月だな。先月も寒かった」
「寒かったですね・・・えーと、じゃあ春眠暁を覚えず、で眠気が断続的に襲ってくる授業中とか」
「それは一年中そうだなぁ」
「ですよね」
学生の半分以上はきっとお仲間だ。窓際であれば確率UP。
例え、勤勉な教師の目の仇になってしまうとしても、睡魔の魅力に抗えず仲良く眠りの海へダイブするものは後を絶たない。
「変質者・・・とか?」
悩んだ末に出した答えだったが、
「それは喜ばしさの欠片もねぇぞ、却下」と笹島にばっさり切られた。
「かふ・・・」
「花粉症も却下な」
尾上が言い終わる前に、さらに釘まで刺されてしまう。
「え、えーと・・・」
「尾上にはないのか、それ以外に春っぽいもの」
笹島は苦笑していた。
確かに、呆れられても仕方ないかもしれない。
ここは、なんとか名誉挽回をしたいところだが――いい考えは思いつかなかった。
「あるはずなんですが・・・・・思いつきません。こんなに私の発想って貧困だったかと思うと、切なくて涙がちょちょぎれそうです。無念です」
「つまり、ギブアップなのか」
「そうですね。残念ながら・・・・・・先輩はあるんですか、春っぽいもの」
「あー。・・・・・・まぁな。あるっちゃあるかな」
「あるんですか!」
「あるけど・・・・・・まぁ、まぁ。うん」
「なんですか、その微妙な表情」
笹島は複雑そうな・・・・・・見ようによっては赤面しているように見えなくもない、なんとも形容しがたい表情をしていた。
「まぁ、その。気にしないでいいぞ」
「え、もしかして私に聞くだけ聞いておいて、言わないつもりなんですか?」
「思いついたはいいが、なんか尾上には言いにくい」
「私には、なんですか?!え、それって差別じゃないですか?」
尾上にはいえない――つまり、他の人になら言えることで、でも尾上には言えないような単語なのか。
「差別――!」
「差別じゃない、特別なだけ・・・ってあ、いや、その」
「特別?差別じゃなくて?特別私にはいえないことなんですね?」
「・・・・・・まぁ、そうともいうのか?」
まだ時期じゃなさそうだから、と笹島が呟いている。視線が泳いでいた。
そんな笹島を見ていたら、尾上に天啓が振ってきた。
「・・・・・・あ、わかりました!春は春でも、大人の階段上っちゃうほうですね」
春――古来より、春はいかがわしいことを暗喩していた言葉であったことを思い出した。
今で言うエロ本を、春画といったように。
それならば、言いにくいと思うのも頷けた。女の子相手には確かに言いにくい言葉だろう。
「先輩のえっち!」
「え、ちょ、まって、なんでだよ!」
思いっきり動揺しているらしい笹島の様子に、尾上は自分が確信に迫ったと感じた。
「やっぱりそうなんですね!・・・・・・そっか、先輩も男の人ですもんね」
女の尾上にはイマイチわからないが、男の人はそういうものに興味を示すものなのだということくらいは知っている。
流石に、犯罪に走るというのならば後輩として全力で止めねばならないだろうが、興味を示す程度ならば、理解してあげるのもできた後輩の務めだろう。
そう思って「大丈夫ですよ、軽蔑しませんから」と微笑んでみたのに、笹島は安心してはくれないらしい。
「ちげぇよ!なんでそんな発想になるんだ!」
往生際悪く否定する。
オトコノコは複雑なものということか。
「先輩が大人の階段をのぼっちゃっても、尾上は暖かく見守りますから!」
だから、力強く、励ましてみた。
それなのに、笹島はなぜか半泣きのように顔をゆがめた。
「お前の場合は階段を踏み外しすぎだ!思考回路どうなってるんだ・・・なんで一足飛びにそんな考えにっ!」
「どうなってる、って。別に普通ですけど・・・」
はて、自分はおかしなことを言っただろうかと尾上は首をひねった。
「とにかく違うから!もう一個、あるだろ、もう一個!」
「もう一個ですか?」
自分には全く心当たりがないのだが、笹島にはあるらしい。
「なんですか・・・それ?」
+ + +
なぜか沈黙してしまった笹島に、尾上は「先輩?」「どうしたんですか?」などと何回か声をかけてみた。
しかし、一向に笹島は口を開く様子を見せない。
そればかりか、額に手を当てて下へ視線を落としてしまったので、彼の表情はうかがえなくなってしまった。
ひょっとして、尾上は彼の機嫌を損ねてしまったのだろうか。
余り喜ばしくない答えや、見当はずれの答えばかり答えてしまったから。
それとも、がっかりさせてしまったのだろうか。
口を聞く気力もないほど?
それならば凄く凄く――悲しかった。
さっきまで、凄く楽しい気持ちだったのだ。
笹島と話しているのはいつも楽しかった。
たいした事を話しているわけではない。
けれど、会話をしたあと不思議と満足感があるのだ。
それなのに、自分はその楽しい時間を壊してしまったようだった。
「先輩、あの・・・」
ごめんなさい、と言えばまた話してくれるだろうか?
でも、心当たりがありすぎて何を謝ればいいのかわからない。
原因もわからないのに謝ってしまってもいいものだろうか?
無闇に謝っても、火に油を注ぐだけな時もある。
どうすればいい?
尾上は唇をかんでうつむいた。
暫くそうしていただろうか。
「尾上」と呼びかけられても、尾上はうつむいたままだった。
もし怒っていたら、と思うと怖くて顔が上げられない。
だから――
「尾上・・・」
泣いているのか・・・?――と下から顔を覗きこまれて、尾上は心臓が止まるかと思った。
「え、な、泣いてないですよ!?」
慌てて顔を上げる。
目元に念のため指先を当ててみるが、やはり涙は感じられなかった。
「ただ、その・・・・・・先輩が私の余りの外しっぷりに怒ってしまったのかと思って、顔が上げられなかっただけです」
馬鹿正直に言った後、はっと口元を押さえた。
これでは本当に怒ってなくても、怒らせてしまうような台詞ではないか。
「あ、いえ、その、えっと・・・・」
どうフォローしようと焦れば焦るほど上手い言葉がでてこなかった。
せっかく、笹島は怒っていなかったみたいなのに。
言葉にならない曖昧な「音」だけが唇からこぼれていく。
「えっと、その・・・」
言葉を捜すうちに時間ばかりが経っていった。
+ + +
「――落ち着け、尾上。俺は怒ってないから」
とんとん、と宥めるように、尾上は背中を軽く叩かれた。
「あ、はい・・・」
「・・・なんでそんな考えになったんだ?」
不思議そうに、笹島が呟いた。
ああ、本当に怒っていないらしい。表情からも、声からも怒りの影は感じられなかった。
自分の考えすぎだったのか。
しかし、それではあの沈黙は何だったのだろう?
「なんでって・・・・・・先輩が急に黙り込むから」
怒ったのか、あるいはがっかりしたのか、呆れてしまったのかと思ったのだ。
そういうと、笹島は再び黙り込んだ。
「先輩・・・・・・?」
「あのな」
「はい」
「柄じゃないって笑わない?」
「はい?笑いませんけど」
「じゃあ言うけど・・・・・・恋のことを春が来たっていうだろ」
「言いますね、確かに」
なるほど、もう一つの春とはそういうことか。そういえばそんな表現もあった。
「俺さ、そういう意味でここ数ヶ月『春』がきてる訳よ」
「はぁ、そういう意味で・・・・・・って、先輩好きな人がいるんですか!?」
「・・・・・・いるよ、好きな人」
それはそれは、知らなかった。
ということは、休みの日は実は彼女とデートしていたりしたのだろうか。
それならば、ちょっとモヤモヤする――どうしてだか、わからないけれど。
「まぁ、片思いだけどな」
続く言葉で、これまたどうしてだかわからないけれど、安心した。霧が晴れていくような感覚だ。
「そんなこんなで、思いついたはいいんだが。なんだか妙に乙女チックな表現だろう?俺の柄じゃないと思っていえなかったんだよ」
「・・・・・・そうなんですか。そんなことないのに」
「そうか?」
「そうですよ」
本当に、似合わないとかそんなことはない。気にしないでいってくれれば、尾上が変な考え――先輩に呆れられたかもしれないとか、先輩を怒らせてしまったのかもしれないとか――に取り付かれることもなかったのに。
「先輩の気にしすぎです」
「そっか。・・・・・・そういえば、尾上」
「はい、なんでしょう?]
「尾上には"春"はきてるのか?」
「私ですか?」
「ああ」
きてないですね、と言いかけて、ふと口をつぐむ。
「・・・・・・尾上?」
ひらめいた。
「・・・・・・あ、そうかも」
「尾上?」
「きそうな予感がします」
「予感?」
「ええ、近々来そうな予感が」
「それ、まだ恋はしてないってこと?」
「はい。でも、もうすぐしそうな予感がするんです」
ふと、気づいたのだ。今の、彼に対して抱いている気持ちを整理して、見直してみたら。
恋が始まりそうな予感がする。
恋がきちんと始まる前からライバルがいるのは大変だが、幸いにしてまだ彼の片思いらしい。付け入る隙はあるだろう。
・・・・・・笹島の好きな人は、果たしてどんな人なのだろうか。
考えると、やっぱりちょっとモヤっとする。
これは、もう予感ではなく、実は始まっているのだろうか。
今日、部活が終わって家に帰ってからじっくりと考えてみよう。
それがいい、そうしよう。
「もし、私に春が来ていたら先輩に教えますね」
ついでにもしそうだったら、彼の好きな人の情報もさりげなく聞き出そう。
80%の確率で、もう恋ははじまりつつある気がする。
後は自覚をするだけだろう。それも、今夜にはできそうな気がする。
「わ、わかった・・・・・・俺もがんばらないとな」
なぜか笹島の声はしょんぼりとしていた。
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